最果ての離島、礼文島。北海道の北部、稚内の西方60キロメートルの日本海上に位置する、風の強い海に囲まれたその島に、佐々木吉夫は生まれました。家は網元、三男坊として生を受けました。

戦後、時代が大きく動く。漁業権の制度改革により、網元だった家は一介の漁師に転落。学校に通いたくても、父や兄と一緒に沖へ出なければ暮らしていけません。冬の冷たい海、子どもの手に重すぎる網。島の教室は、漁に出る子どもが多すぎて、時に生徒が誰もいない日さえありました。

「何でこんなに貧しいんだ。俺が村長になって、この村を変えてやる。学校を造りたい、病院も造りたい。学校にいかなきゃ!」
そう思った佐々木吉夫は、親に内緒で連絡船に飛び乗りました。向かった先は、姉の嫁ぎ先。出世払いで居候を頼み、朝は牛乳配達、昼は高校、夜は家の仕事。まるでひと月が一日のような忙しさだったそうです。
吹雪の朝、手の感覚がなくなるほどの寒さの中、牛乳を抱えて戸口に立つと、赤ん坊を抱えた母親が出てきた。「この子に飲ませたくて、待ってたのよ」。その言葉が胸に刺さった。数ヶ月後、集金に行くと、その母親が言った。「見て、この子。こんなに大きくなったのよ。」

佐々木吉夫は、その時思ったのです。「自分は、牛乳を運んでいるんじゃない。命を育てているんだ」と。惨めで恥ずかしいと感じていた日々が、初めて誇らしいと思え、現実が変わって見えてきたのです。
「俺は同級生と違う。赤ん坊を育てながら学校に来ているんだ。」
そうして高校を卒業後、彼は札幌の大学へ進学します。大学に入るのは一年遅れましたが、母が送ってくれたホッケや昆布をかじりながら夜通し勉強しました。そして偶然見かけた「議員秘書募集」の貼り紙。少年の頃に抱いた夢「俺が村長になって、この村を変えてやる。」が目の前に!迷わず応募し、彼は福岡の地に降り立ちます。

その博多の町で、佐々木吉夫は運命と出会います。ちょうどその頃、博多名物として「辛子めんたいこ」が注目を集めはじめていたのです。
「自分は漁師の息子。タラコのことなら任せとけ。」
根っからの負けず嫌いが、明太子づくりののめり込む原動力に。そうなると止まりません。
漁師の息子として、すけとうだらの原卵を腹ごとに手で確かめ、薄皮の張りと粒の立ち具合を五感で見極める。その目と手に、礼文島の海で培った勘が発揮されていました。

タレの調合、唐辛子の選定、魚醤の使い方――毎日味見しては、捨てるの繰り返し。家の台所にすけとうだらの卵が山のように積まれ、部屋中にタラコのにおいが染み込むほどでした。
周囲は「そんなに苦労して、うまくいくわけがない」と言った。それでも佐々木吉夫は、明太子づくりの探究をやめませんでした。

試行錯誤の末に生まれた「福さ屋の味」は、魚醤の深い旨味と、福さ屋オリジナルブレンドの唐辛子が生み出すキレのある辛さと甘さが特長。漬け込みに三日三晩かけ、じっくり寝かせてこそ、素材の旨さが花開く。
「妥協せず、本物を届ける」。
それが佐々木吉夫の信念で、出来上がったのが「福さ屋の辛子めんたい」。
母が教えてくれた言葉――佐々木吉夫が心に刻む言葉
「憧れにすべてを捧げて進む。これぞ、わが戦い」憧れ、望んだことにに手を出して掴む。掴んだら離さない。その掴み続ける努力、忍耐を惜しまない。

1978年、ついに「福さ屋」を創業。
だが、当時の福岡はすでに多くの明太子メーカーがしのぎを削る激戦区。後発組である福さ屋は、先発メーカーに埋もれてしまいました。
佐々木吉夫は、勝負にでる。
「ならば、東京に活路を見いだそう!」
1979年、昭和54年10月、東京・銀座の真ん中に、屋台が誕生しました。佐々木吉夫が引く屋台。あんどんには「めんたい」の文字が灯り、スピーカーからは「博多どんたく」の囃子が流れる珍しい出で立ちに、周囲の飲食店のスタッフやネオン街を行き交う人々が足を止め、福さ屋の辛子明太子を買っていきました。

佐々木吉夫は、有楽町にわずか四坪の店を構え、銀座並木通で深夜まで屋台を引き、銀座のクラブというクラブにチラシを配り回りました。ホステスさんにはおまけも!その効果があってか、福さ屋の評判があっという間に広がりました。
とある百貨店のバイヤーの目に留とまり、それをきっかけに販路が一気に拡大し、福さ屋の名は全国に広まっていきました。

いまや福さ屋は、「博多を代表する味」として全国に知られる存在と自負しています。
創業から今日まで。福さ屋の明太子は、ただの名産品ではありません。
その根底には、礼文島の海と、ひと腹ひと腹にこだわった卵、そして幾度も試行錯誤を繰り返した創業者 佐々木吉夫の情熱があります。
佐々木吉夫は、母からの言葉「憧れにすべてを捧げて進む。これぞ、わが戦い」を人生において実現させました。憧れ、希望「こうしたい」という思いを、探究心で考え抜いて、そして体を動かして、実現させる。絶対に、叶えてやるという自分自身との戦いに、常に挑んできました。
そして、幼少期の「貧しさ」「不便さ」が佐々木吉夫を突き動かしてきました。
博多駅に設けたスーパーマーケット「博多ステーションフード」は、デパートやスーパーマーケットが7時には閉店していた時代に、朝9時から夜9時まで営業させ、仕事終わりのサラリーマンや主婦の方に利用されるようにし、品物もたっぷりと揃えて便利さを追求しました。

珈琲店も博多駅にオープン。携帯電話がない時代、「待ち合わせができるように」と店には伝言板、コードレス電話、ファックス、コピー機を備えました。すべて、「生活を豊かに」に繋がります。博多名物「辛子明太子」で食卓へ笑顔を届け、豊かな食卓を味わっていただきたい、そんな佐々木吉夫の思いが込められています。

私たち、「福さ屋」は創業者 佐々木吉夫の思いを100年、200年と継いでいきます。
常々、佐々木吉夫が言葉にしていた「博多のために」「世の中に恩返しをしてください」。
この言葉を行動として実践していく「福さ屋」であり続けます。
音声で聞いてみる






